秩父の国有林 ちょっと昔のはなし
柴崎 雄一さん

秩父の国有林 ちょっと昔のはなし
秩父連山の奥の奥、そのまた奥には、深い森を抱く国有林が広がっています。秩父の林業を語る上で外すことのできない歴史を持つ国有林は、時代を超えて水源を守り、人々の暮らしを支え続けてきました。
さて、ここは秩父市浦山の細久保谷。数日前の雪も解けず寒さ厳しい奥山に、営林署時代からの古い山小屋がポツンとあります。年季の入ったドラム缶の薪ストーブで暖をとりながら昔話を聞かせてくれたのは、秩父市大滝出身の徳光さんと、秩父市浦山出身の中山さん。昭和30年後半から秩父営林署の職員として長きにわたって国有林を活かし、守ってきたいわば「国有林の生き字引」です。そして、現役で国有林の管理を行っている埼玉森林管理事務所の柴崎さんも加わり、懐かしい時代の山の話を聞かせていただきました。
(取材日:平成25年12月25日)

お話を伺った方

元・秩父営林署職員
徳光 勝さん(秩父市大滝出身)
中山 国男さん(秩父市浦山出身)

林野庁 関東森林管理局
埼玉森林管理事務所
森林技術指導官

柴崎 雄一さん

山で育った人間は、自然に山の仕事をするようになってたんだいな


そもそも皆さん林業の世界に入るきっかけはなんだったんですか?

薪ストーブを囲んで
<中山>昔はそれぞれの家で代々山仕事をやっていたから、俺も当然山に入るもんだと思ってたいなぁ。学校を卒業すれば長男は家へ残るもんだったから。みんな百姓と山仕事が専門みたいなもんだったいね。俺が中学校を卒業してすぐのころ、親父が県造林で炭焼きとかの仕事をしてたから、親父の手伝いでに山に行ってたいね。営林署に入ったのは昭和38年か。学校卒業して他所に勤めに出ていった人も多かったけど、俺らの世代はみんな、山で育った人間は、自然に山の仕事をするようになってたんだいな。

<徳光>俺もほぼ同じだなぁ。俺は中津(秩父市大滝)の出身でさ。中学を卒業してからは自分の家の山で山仕事してたよ。当時、高校になんか出たのは学年でも一割ぐらいしかいなかったんべな。営林署に入ったんはクニさんより少し前だったいな。


営林署に入ってから、どのあたりで仕事をしていたんですか?

<中山>昔は営林署も、地区ごとで担当区事務所ってのがあったんだよ。俺は浦山だから秩父担当区事務所だった。荒川担当区事務所、大滝担当区事務所とかっていくつもあってよ。昔は人も多かったから、その担当区に入ればずっとそこで専属だったいなぁ。俺なんかが辞めるちょっと前ぐれぇからは新規採用もなくなって、人が少なくなってからは助っこみたいなんであっちこっち行って一緒にやったなぁ。

昭和30~40年代にかけては盛大に山から木を出してたいなぁ


一担当区で人がどれくらいいたんですか?

<中山>担当区でも造林関係が7~9人はいたかさあ。その他に治山、林道、土木のほうも人がいたし。臨時、日雇い、定期って雇用のしかたも分かれてて。結構にぎやかだったいな。俺が入って数年たったころだから、昭和40年~45年ごろか。そのころが人も一番多かったいな。内勤・現場作業員併せて、営林署全体で160~170人はいたで。

<柴崎>全国で職員が7万人ぐらいいた時代もありましたね。先輩から聞いた話なんですが、昔は営林署にはいろんな業種の人がいて、それこそ山で木を伐って出す人がいれば、治山で石積み専門の人もいたとか。

<中山>「石ンド」だな。

<柴崎>それから家を作る大工もいて、電気の配線まで自前でやっちゃって。場所によっては医者とか看護婦さんもいたり、船乗りもいて自前の船で材木を運んでたって聞いたことがあります。昭和40年代は日本全体が木材で儲かってたってことだろうと思いますよ。

<中山>何しろ現場に人がえらいてよぉ、昭和30~40年代にかけては盛大に山から木を出してたいなぁ。当時は賑やかだったで。林道もつくってて、木もバンバン出してるし。それぞれが飯場(はんば)、要するに山小屋だいな。そこに泊まり込んでやってたんだい。「山泊(さんぱく)」っつってなあ。俺なんかもやったよ。このへんは営林署だけでも3つ造林小屋があって、その下に業者の小屋があって、ホント賑やかだったなぁ。


昔の山小屋はその当時にさかんに作られたんですね。

<中山>浦山にはもともと小屋自体はあったんだけんど、俺が山泊してたときできた小屋もあってよ。小屋建てる材料は山で現地調達。その場で挽いて、大工が建てたからそれなりのものだったで。景気の良いときでずいぶん木を伐ってたから、小屋にするぐれえの材には困んなかったいな。


「山泊」ってだいたいどのぐらいの期間行うんですか?

中山さんと柴崎さん
<中山>仕事の内容にもよらいな。1か月のときもあれば、2、3か月かかることもあった。あんまり短けぇとかえって大変だったから、まとまった期間山に泊まるんだよ。冬はあんまり雪が降っちゃあできないから山泊してまでやるってことはなかったけど、年間の計画をこなすのに、暖かいうちは山の奥の方から作業していくわけだいな。真冬になったら近いところや日向山(ひなたやま:陽がよく当たる山)みたいなところを残しておいてやれるように。


食料、日用品の調達はどうしてたんですか?

<中山>土日とか休みの日には山から下りてきて調達して、また背負い上げるわけだよ。みんな各々自分で必要なものを持ってきてなぁ。浦山じゃあ山泊んときの食糧っつうと、山の下には人家があったし、官舎もあって人がいたから、そこまでは引き売りみたいに商店の人が回って来てたんだいな。だから、食糧とかを頼んで買っといてもらうんだよ。途中でどうしても足りなくなったらそこまで取りにいけばいいしなぁ。

<柴崎>やっぱり食料と水の確保は大事だったようですね。

<中山>あとはやっぱり酒が付きもんだったいな。他のもんは忘れても酒だけは忘れなかったからなぁ(笑)

「山泊」じゃあ、日が暮れたら寝て、日が昇ったら起きる。そういう生活だったいなぁ。


「山泊」っていつごろまでやっていたんですか?

<柴崎>営林署で最後まで山泊をやってたのは(大滝の)栃本にいた職員でしょうか。昭和50年代後半ぐらいまでだと思いましたが。

<中山>そうだなぁ、将監(しょうげん)(峠)とか甲武信(こぶし)(ヶ岳)あたりでやったんが最後かさぁ。

<柴崎>その頃まだ雁坂トンネルもできてなかったから、八王子を回って高速道路使って山梨県側から行きましたよ。当時、皆さんもう50代後半でしたけど、本当に頑張っていたなあと思います。その人達から「ずっと若いときからこうやって山仕事をやってきたんだ」って聞いたことがあります。


電気も通ってなかったと思いますが、大変だったでしょうね。

<中山>それこそ当時は自家発電だい。水力発電所があってよ、それでやってたんだい。

<柴崎>山泊の現場では沢を利用した水力発電所が活躍していたところも多いんでしょうね。入りたての新人の仕事は、水路にしている樋につまった落ち葉をとることだったって聞きました。


風呂なんかはどうしてたんですか。

徳光さん

<徳光>やっぱりドラム缶風呂だよ。あれは底が熱くってなぁ。

<中山>山泊じゃあみんなドラム缶だいなぁ。10月ごろになるともう寒くってかなわねぇで。

<徳光>中津川も寒かったなぁ。造林小屋の下の沢まで顔を洗いにいくんだけど、道中寒くて髪の毛からつららが垂れてなぁ。

<中山>そうだよ。浦山の集落だって水道がなかったころは、顔洗うのに水を汲んどくんだけど、朝になったら凍ってるから、水面の氷をぶっかいて顔を洗ったもんだで。日が暮れたら寝て、日が昇ったら起きりゃあいいんだから。そういう生活だったいなぁ。思えばよくやってたいなぁ。一年じゅう山仕事してよ。風邪もひかねえ、病気になったこともねえ。


体力がないとできないことですよね。山仕事で体力がついたのかもしれませんが。

薪をくべる中山さん

<中山>それがもう80歳近くになるわけだからなぁ。わきゃあねえで。

<柴崎>山でやるいろんなことは、体で憶えないとできないことですよね。火を燃すことだってそのひとつですよ。お二人は夕立のときでも雨の中で火をつけられますからね。「寒いから火にあたるべえ」「でも雨降ってますよ」「せやねぇ(大丈夫だ)よ」っていってサっと雨の中で火をつけてましたから。びっくりしましたよ。山で働いてる人って器用ですよね。

<中山>そうだいなあ。山ん中にあるものだけでどうにか考えてやらないといけねえからなぁ。

<柴崎>営林署で現場仕事をやってた人は、口数は少なくても、手先が器用な人が多かったですよ。

景気がいいときにはずいぶん木を伐ってたもんだいなぁ。


当時、山から出していたのは、樹種でいうとどんな木だったんですか?

<中山>天然ヒノキ、モミ、ツガ、広葉樹でいうとブナ、ナラ、カエデ、ケヤキとかいろいろだいな。

<柴崎>このストーブの直径(70cmぐらい)はゆうに超える太い天然木があちこちにあって、そういうのを出してたんでしょう。

<中山>そうだいなぁ。景気がいいときにはずいぶん木を伐ってたもんだいなぁ。


当時は今使っている機械もなかったでしょうから、そんな太い木を伐るのには苦労したんじゃないですか?

<中山>うん、それでもチェンソーなんかはもうあったいな。昭和40年代のはじめにはもう手伐りってのはやんなかったし、見なかったしなぁ。当時の請負業者もみんなチェンソーでやってた。(手を広げて)こんな長いバーでよ。

<柴崎>チェンソーは、アメリカ軍がジャングルを切り開くのに使っていた二人で抱える大きなチェンソーが、戦後の日本に持ち込まれて改良され、日本を含め各国に広がっていったみたいですね。

「木馬(きうま)」っつう木で作ったソリに材木を乗っけて、人力で曳くわけよ。


昔はどんな方法で集材をしていたんですか?

木馬
<中山>山に林道が入って、架線を張って集材できるようになる前は、「木馬(“きうま”または“きんま”)」っつうもんがあってな。まぁ、木で作ったソリだいな。ハシゴみてぇに長材の上に枕木がわりに丸太を打ち付けて木馬道(きんまみち)をこさえて、材木を乗っけたソリを人力で曳くわけよ。ソリがすべりやすいように丸太に油を塗るんだい。岩石が多いとことか場所が悪いところは掘り付けができないから、桟橋をかけたりしてなぁ。俺が営林署に入ったときには、道の形跡はあったけんど、もうやってなかった。昔はこのへんにも木馬道や吊り橋があって、木馬を曳いてたんだな。桟橋がそこらじゅうにあってよ。そこを渡って山に遊びにいってた記憶があるなぁ。
片桟橋

<柴崎>私の父親も山で木馬を曳いていました。足に大きな傷跡があって、「木馬を曳いていたとき転んだんだ」と言ってました。危険な作業だったろうと思いますが、戦後、集材機が開発されるまでは、集材・木材運搬は木馬が中心だったということです。

<中山>集材機っつうもんでやるようになってからは、架線を張って集材機で木を引っ張って運ぶ「索道(さくどう)」でやりだしたんだよ。浦山じゃあ、順番としちゃあ木を先に伐ってって、林道を後から入れてったんだよ。だんだんに伸ばしてく林道の先頭までは索道で集材してな。それでまた奥で木を伐るとその先まで道を入れてっての繰り返し。林道の終点にいっても、またその奥から架線引っ張って木を出してきてなぁ。

索道
<柴崎>作業道をまず山に入れてから材木を出す今のやり方とは全然違いますねぇ。秩父の国有林は、林班や小班(森林区画の単位)が架線集材をしやすいように谷に沿って縦にふられています。今は国の方針としても森林作業道の開設を推進してますが、民有林で作業道を作って材木を出すとなると、境界をいくつも横断することになるから、それぞれの地主に承諾をもらうのも一苦労だと思います。(作業)道を入れて材木を出すということは、当時は想像できなかったでしょう。


今は索道を張れる人も少なくなったっていう話も聞きます。

<中山>今はなかなかいねえだんべぇ。索道っちゅうのもそんなに見なくなっちゃったいなぁ。

<徳光>あれも技術が要るかんねぇ。グリスとかついて全身汚れるし大変だいなぁ。若い連中もやりたがらなかったいなぁ。

大滝じゃぁ、トロッコでずいぶん木を出したもんだよ


大滝ではどうでしたか?

修羅(塩沢)

<徳光>大滝じゃあ「せり出し」もやってたなぁ。長い木を沢沿いに縦に並べて、その上に3メートルだか4メートルとかの材を転がし込んで、ざーっと下に流すわけよ。修羅(シュラ)って言ってなぁ。

<中山>民間のほうでよくやってたいなぁ。

<徳光>俺が営林署に入ったときもやってたよ。職人がトビで材木を上から一本一本シュラに落とし込んでな。それで集材して、トロッコで運ぶんだいな。冬になると、よく滑るようにって朝のうちに水を打って表面を凍らせてやったりしたなぁ。


中津だと、それこそ有名な「鉄砲堰」もやってたんですか?

中津川に復元された鉄砲堰

<徳光>おお、テッポウな。俺なんかのときにも大若沢で作ってたな。材木で沢の途中に堰をつくって、そこに水をためたら、堰を切って材木を水と一緒にドーンと下流に流すわけだいな。

<柴崎>昔の人は良く考えたなあ。

<徳光>ホント、そうだいな。

<柴崎>あと大滝は軌道搬出がさかんでしたよね。中津川の林鉄(森林鉄道)が廃止になって林道工事がはじまったのは昭和30年代のはじめごろでしょうか。それまで中津川の軌道は、今の森林科学館(秩父市中津川)のずっと奥に続いていて、森林科学館あたりが土場だったようですね。そこに営林署の出先事務所(木材伐出を専門とした中津川製品事業所)もあって。

トラックでの運搬

<徳光>中津の軌道は信濃沢まで入ってたよ。信濃沢の入りっ口に回転盤(転車台)があって、トロッコを台に載せてクルっと回転させるんだいな。他はスイッチバックだったけど、そこは場所が狭かったから回転盤にしたんだよ。今は跡形も残ってねぇだろな。もしかするとレールの残骸ぐれぇはあるかもしれねぇけど。大滝じゃぁ、トロッコでずいぶん木を出したもんだよ。架線で山の上から木を出してきて、土場に集めてっからトロッコで運んでな。今の森林科学館のあたりに土場があってよ、そっから営林署のトラックで秩父の大野原まで運んだな。専門のトラック屋がいてなぁ。

<柴崎>今みたいないい道じゃないから、大変だったでしょうがよく通ったなぁと思いますよ。

<徳光>官トラ(営林署のトラック)と、民トラ(民間のトラック)も多かったな。毎日来てたよ。


植付けからはじまり、造林するにも大変だったでしょうね。山のはるか上のほうまでスギ・ヒノキが植えられているのを見ると、昔の人の苦労が偲ばれます。

<柴崎>大久保谷から入っていった国有林で、標高1,400m位のところにヒノキが植わっていて、それを伐って(市場に)出しました。大正時代に植えた木でしたが、昔の人はよくこんな遠いところに植えたなぁと思いました。赤身の多いヒノキで、6メートルの通し柱用の丸太に採材したら結構いい値段で売れましてね。市場の「競り」を職員みんなで見に行きました。

<中山>そのヒノキも、炭焼き用の山を伐った後に植えたんだんべな。どうやってあんな上まで苗を持ってってたんかさぁ。馬の背に載せて運んだっつう人もいるけんど、何しろ林道もネェわけだから、いけるところまで馬で行って、やっぱり最後には人が背負ってったんだんべ。

<徳光>そうだんべな。うんと遠いところなんかは、山の途中の平なところに苗を仮植(かしょく)するやり方もあったいなぁ。その「仮植場」まで苗を運ぶ専門の人もいて。そこにひとっきり置いといて、植えるときに現場に持ち上げるんだいな。


今と比べて色々大変だったと思いますが、その中でも一番大変だったことって何でしょうか。

<中山>今とくらべちゃあ何でも全部大変だったよ。

<徳光>それでもやっぱり下刈りが大変だったかさぁ。今みたいに刈払機なんかなかったし、きつい斜面も草刈鎌で全部やったもんだいなぁ。笹ヤブなんかはきつかった。

<中山>浦山は笹がひどくってなぁ。

<徳光>中津もひどかったよ。

<中山>昔は下刈りも「二回刈り」っちゅうので梅雨明けとお盆過ぎの2回やってたけんど、だんだん1回になってったいな。山仕事は夏の暑い日、冬の寒い日が大変だったいなぁ。

<柴崎>昔と今じゃ道具も変わったし、やり方も違うし、昔山仕事をやってた人に話を聞いても、「本当にそんなことをやったんですか?」って思うこともあります。そのたびに、当時は本当に大変だったんだなぁと感じますね。

浦山にも皇室の山があって、腰にサーベルつるった役人が山に来てたんだとよ

<中山>国有林はほとんどが奥山だし、急な山が多いとこだし大変だいなぁ。それこそ昔は、民間でも持ちたがらない山で、山主がいねえところなんかは国有林になったっつう経緯もあったんじゃあねえかさぁ。

<柴崎>大滝では江戸時代には幕府直轄の山があって、それが明治に入って国有林になったということですが、あるいはそんな理由で国有林になったところもあったかもしれませんね。

<中山>そういやぁ、浦山でもこの辺は昔「御料林(ごりょうりん)」っつう皇室の山だったんだと。ここらに住んでたおばあさんに聞いた話じゃ、お役人がたまに山に入ってくことがあるんだけど、まあ今の森林官みたいなもんだいな。腰にサーベルつるって来てたってな。

<柴崎>戦前はこのあたりに御料林があったんですね。その頃のお役人って肩章が付いた制服を着て、お巡りさんみたいな恰好をしてたって聞いたことがあります。

<中山>ここらをまとめる担当区主任は偉かったらしいからなぁ。

<柴崎>村長さんの次に偉かったって聞いたことがあります。


どの山ひとつとっても、そこに固有の歴史がありますよね。

<中山>やっぱり山はもともと製炭業をやってる人のほうが多かったんじゃねぇかさあ。材木の需要が増えてきてっから、材として木を出すほうにみんな変わってってよ。

<柴崎>暖房、煮炊きをはじめ、とにかく昔は薪や炭が燃料でしたからね。営林署でも製炭係があって、炭焼き専門でやってたみたいですし。燃料革命がおきて、それまでの木質系から、石炭、そして石油や天然ガス系へのシフトとともに需要は減っていきましたが。

<中山>終戦後にはそこらじゅうの山で炭焼きをやってたいね。(浦山の)広河原の奥のほうまで炭焼きの山になってたしなぁ。俺が営林署で働き出したころも、国有林の奥のほうで炭焼き窯の跡があったりしたかんなぁ。

<徳光>子どもが炭焼きのアルバイトをやって小遣い稼ぎをしてたぐらいだかんなぁ。一俵いくらってんで、山から担いでくるんだい。15キロもある炭俵をなぁ。

<柴崎>製炭業も林業の変遷に大きく関わってきた、ということですね。

時代が変わっても、やっていることは今も昔も一緒なんだなぁと思います。

<柴崎>古い写真を見ると、時代が変わっても、やっていることは今も昔も一緒なんだなぁと思います。違うのは服装だけかなあ、今時ゲートル巻いている人は見ませんね。

<中山>相手する山はいつの時代も同じだかんなぁ。

<柴崎>木を植えて、育てて、伐って、それをお金にして、売上の何割かのお金で次の木を植えて。何世代くりかえすか分かんないけど、そうやって続けていくんですね。林業機械や造林技術などの開発はどんどん進んできたけど、基本的にやることは同じだね。人間は、木との関わりが長いから、いろいろと使い方を見出してきました。柱にはこの木、梁にはこの木、水回りにはこの木、農具の柄にはこの木とか、知識を身に付けてきたんですね。

<中山>そういうのは実際の経験からきてらいなぁ。

<柴崎>担い手がいなくなるのはやっぱり問題ですよね。林業っていうのは、自分が植えて、孫がお金に換えるっていう産業で、結果を見るのは何十年も先のこと。これからの林業は、間伐のための作業道を入れながら材木を出して、5年、10年たってからまた間伐をする。全部は伐らないようにして、空いたところに広葉樹を植えたり、自然に生えてきた広葉樹を育ててたりする方法が主流になっていくのかなと思います。

<中山>最後は管理だけになるだんべ。現場に人がいなくなっちまうからなぁ。

<柴崎>ある程度その山から材木を出したら針広混交林にしていって、「今までありがとうございました」って元の自然の山に戻していくわけですね。どれだけ先のことになるかはわかりませんが、そういった山の姿になっていくんじゃないかと思いますよ。

<徳光>案外近いうちにそうなるかもしれねぇなぁ。

現場のことは、現場で新しい人に引き継いで繋いでいかねぇと。

<柴崎>山のことを知っている人がいなくなっちゃうと、現場のことが解らなくなってしまうんです。「あの木はどこにあって、この沢づたいに行くと~」とか。実際の現場で教えてもらわないとわからないことは多いですよね。

<徳光>本来、現場のことは、現場で新しい人に引き継いで繋いでいかねぇと。そうじゃないと本当にわかんなくなっちまうもんがあるかんなぁ。もちろん図面もあるけど、現場ではやっぱり図面と違うところが結構あるからなぁ。

<柴崎>今は国有林もOBのお二人がこうしてなんとか山に来てくれますから、本当に助かっていますよ。


そういえば、現在はお二人とも国有林でどんな仕事をされているんでしたっけ?

休憩所にて

<中山>定年で一度引退して、再雇用でお世話になってるんだけどよ、今は現地調査が中心かさぁ。あとはシカ柵の点検と補修、歩道修理といったところだな。まぁ、昔は現場作業員がいっぺぇいたから直営でいろいろやってたけんど(植林・下刈り・伐採などの山仕事の作業の全部)、今は2人になっちまったから、できることは限られちまうやなぁ。OBはみんな年をとっちまったから、山に入れる人もいなくなっちまったい。

やっぱり人が少なくなっちまうのは寂しいなぁ。山に活気がなくなる。

<柴崎>現場じゃないとわからないこと、次の世代に引き継いでいくべきことを教えていただく、それが大きいですね。そうはいっても、技術的なことを直接伝える後輩がいないわけですから、そういった面では寂しさを感じていらっしゃると思います。

<中山>寂しくなっちゃったいな。当時は人が多すぎて、モノゴトを決めるのに手間くってて、人がちっと減ればまとまりがでるだんべ、なんて思ってたけんど。やっぱり人が少なくなるってのはさびしいよ。山に活気がなくなったいな。やっぱり人が多かった時代はよかったなあ。そりゃあいろんな人がいればケンカも起きるけど、仕事をする面白みはその分あったよ。後んなってそう思うんだけどな。


これまで長年山仕事に携わってきて、良かったこと、楽しかったことってなんでしょうか。

<中山>そうだなぁ。いざ聞かれると難しいけんど、なんでも一生懸命仕事をするっちゅうことは身についたいなぁ。あとは、やっぱり山に人が大勢いたときは楽しかった。今考えるといい時代だったのかもしんねぇ。まあ、こうして年とっちゃうと、正直なところもうきついでなぁ。だいいち体が言うことをきかねぇ。昔、年寄りの人が言ってたことが身に染みてわかる年になっちまったいなぁ。


これからもお体には気を付けて頑張ってください。

<中山>自分の体が動けるうちは、というよりゃあ、こうして頼んでもらっているうちはなんとか山でやっていてぇと思うけどよぉ。

<徳光>ハァ、年には勝てねぇで(笑)

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