手探りでつかむ 林業の未来
山中 敬久さん

手探りでつかむ 林業の未来
奥秩父の急峻な山々がそびえ、広く、深い森に覆われている秩父市大滝地区。全国の山間地で問題となっている過疎化、そしてそれに伴う林業の担い手不足に悩んでいるのは、ここ大滝も例外ではありません。
山中さんは、地域を想い、大滝の森林の未来を切り開くために行動をし続けているキーパーソン。林業の再生のため、そして森を守っていくため、積極的に人との出会いを重ね、手探りで進んできた日々は、まさに試行錯誤の連続でした。そんな山中さんに、これまでの道のりを語っていただきました。
(取材日:平成25年11月22日)

お話を伺った方

大滝山林振興協議会 会長
秩父樹液生産協同組合 代表理事
有限会社 角仲林業 代表取締役

山中 敬久さん

きのこ生産を始めてから、あえて山を見ませんでした。
山を見ると「手入れをしないと」と思ってしまうから。


山中さんは、代々林業をやられていたんですか?

山中さん所有の山林
うちは多分林業は4代前からでしょうね。親父の代では7人くらい雇って植林、下刈り、枝打ち等をやっていました。山を売る時には、製材屋さんが来て「あそこの山を売ってくれ」「いくらだい?」って感じでやり取りをして、山から出す(搬出)のから製材屋さんがやっていました。他の山持ちの人も同じだと思います。それからどんどん木の価格も落ちて、これじゃやっていけない、ということで私の代からきのこ生産を始めました。きのこを始めてから、あえて山を見ませんでした。山を見ると「手入れをしないと」と思ってしまうから。

きのこ生産を始めたのは昭和51年の3月。最初はひらたけしめじからでした。小鹿野町の鷹啄(たかはし)さんに教えて欲しいと頼んだんです。最初、「よした方がいいよ」と言われたのですが、何とかお願いしますと頼んで始めました。鷹啄さんたちは、自分たちで秩父しめじ茸生産販売組合を設立して、運送屋を頼み、直接東京の市場まで出荷していたんです。これはすごいことですよ。農協に頼まず自分たちで販売するのですから。

もうそろそろ収穫を迎えるなめこ
そこへ入れてもらって、16、7年くらい組合にお世話になりましたね。月に一度、持ち回りで組合員の家に必ず集まって夕食をとりながら、夜中の12時過ぎまで会議をしていました。なかなか思うように生産量が上がらず悩んでいましたけど、みんなそれぞれ研究熱心だから色々試しましたね。何しろ始めた頃は、「クーラーで冷やせば夏でもきのこが出てくるだろう」という程度でしたから。今では普通のことですけど、とにかく手探りでやっていましたね。

その内、ひらたけしめじが年々安くなる、仲間は年を取ってくるという中で、それぞれの道を考えようとなり、私はなめこをやることにしました。平成5年のことです。まだ借金が残っていてどん底のときにさらに借金して設備投資しました。何しろ品質の良いものを作ろうと必死にやっていましたね。そのうちに注文も増えてきて、生協や市場からも「もっと送ってほしい」と声がかかるようになりました。これなら、スーパーと直接取引しても大丈夫だろうと判断し、それから秩父が発祥の地である株式会社ベルクさんと取引するようになったんです。

接種から収穫まで約80日をかけて大事に育てます
「秩父のなめこは味がいい」と売り上げも好調で、取扱量も増やして貰えました。多少値が張っても買ってもらえましたよ。やっぱり商品の評価を決めるのはお客さんです。日本の今のデフレ経済は、売る側も買う側も「安ければ安い程いい」ということでしか物事を判断しなかったから、皆苦しくなったんです。

お金だけじゃない付き合いができるのっていいなぁ


インターネットの活用などはされていないんですか?

角仲林業じまんの「祭なめこ」
ネット販売もやっていますよ。東京で5、6軒店舗があるトンカツ屋さんに卸しているんですが、前の生産者は注文してもすぐには送ってくれなかったらしいんですよ。それでネットで見て「お宅と取引させてくれないか」って話が来たんですが、うちは注文が来た次の日には必ず送るようにしています。そのトンカツ屋さんのなめこのみそ汁は食べ放題みたいですけどね(笑) 大滝でも、キャンプ場をはじめ、インターネットの活用はみんな結構やっていますよ。

小鹿野町のキュウリ農家との連携もやっているんですよ。「なめこ栽培で使った廃おがくずを畑に入れるといいよ」と鷹啄さんが小鹿野の知り合いに熱心に声をかけてくれて、だんだん広がりました。なめこ用のおがくずは広葉樹なんですが、養分もあって腐りやすいから、いい土になるんですね。キュウリやなすの農家から引っ張りだこなんですよ。キュウリ貰ったり、なす貰ったりしますよ。それで、こっちもなめこを持って行く。お金だけじゃない付き合いができるのっていいなあと思います。当てにされるから、こっちも頑張らなくちゃ。

本を読んで、その著者のところに飛び込みで行って相談しました


本格的に山の取り組みを進めようと思い立ったのはどんなきっかけからだったんですか?

このへんのところを話しだすと長くなっちゃって話が終りませんね(笑)増田一眞さんが書いた 「建築構法の変革」を読んだんですよ。この本で、世界に冠たる日本の伝統木構法が、明治初年の西洋かぶれの学者によって否定され、片隅に追いやられていく歴史と林業の衰退がリンクするのが良くわかりましたね。ではどうするかと考えているうちに、仁多見先生(東京大学准教授)と出会ってアレヨアレヨという内にまあいろんなことをやってきた訳です。それと、平成14年に倅がなめこをやると入って来たので、山へ向きやすくなったこともあります。倅にはきのこのことはちっとも教えてもらわなかったと言われますが(笑)

平成11年1月 増田一眞著「建築構法の変革」との出会い
平成11年10月 仁多見先生(東京大学准教授)との出会い
平成11年10月 源流シンポジウム開催
平成12年11月 千年の森委員会
平成13年8月 大滝山林振興協議会設立
平成14年2月 スイッチバック道開設
平成14年2月 大橋慶三郎氏山林視察
平成15年6月~11月 大橋式作業道開設
大橋式作業道の開設
増田先生と対面したのは平成15年5月。本を持って編集室である建築思潮研究室へ両国駅から電話をかけ、こういう訳で先生に会いたいのですが、会わせてもらえるかと言ったら、先生に電話してくれました。編集室がマンションの中にあるので判らずウロウロしてて、やっと入って行ったらすぐに先生が来て。実に温和で誠実な人でした。それから先生のセミナーに通ったり、NPO に参加したりして付き合いを深めました。


いろんな人と繋がりが広がっていったんですね。

作業道開設工事
2つ目の作業道を作ったときに、幸島会長(大滝山林振興協議会初代会長)から「材を欲しがっている大工がいるんだけど対応できる?」と電話がありました。それが熊谷の白根工務店さん。色々話を聞くと、増田先生のセミナーも受けたとのことだったんですよ。それで、「林内に葉枯らししてある木へ印を付けてくれれば、土場へ出すよ」って伝えて、すぐに取り組みが始まりました。増田先生も 「みんなフンフン話を聞くだけの人がほとんどだけど、2人は実際に行動しているからすごい」と言ってくれて、うちの山へも来てくれました。やっぱり、工務店や設計士、製材屋さんも含めて、わかっている人が共通意識をもって取り組んで行かないといけないと思いますね。

みんな一生懸命スギ・ヒノキを植えてきたわけですよ


森林施業の集約化を積極的にやられていますね。

協議会のメンバーと山林調査をする山中さん
やっぱり林業家は、自分の家で植えた木は自分で伐って売るのが本来の姿ですよ。戦後の拡大造林で木を育てて売れば将来いい思いができると、みんな一生懸命スギ、ヒノキを植えてきたわけです。でも、いざ伐る段階になってみたら、安くてどうしようもない、自分はできない、重機も買えない、道も造れないということで、森林組合や林業事業体に頼まざるを得なくなる。自分に入ってくるのは雀の涙。結局、人の為に仕事を作ってやったようなもので、「俺は何をやってきたんだ」ってことになっているんですよ。これが現実です。


森林経営計画を立てるときに、森林所有者へ声をかけていくわけですけど、そのときは皆さんどんな反応でしたか?

大滝山林振興協議会の総会のときに、農林振興センターの担当の方が森林施業の集約化の説明をしました。「会でやってみますか?」と提案したら、懇意にしている大先輩から、「俺の方では地籍調査が済んでる山で、間伐をしていない山があるから、そこをやらないか」と言われ、「じゃあ検討しましょう」となりました。会で山林所有者にあたって了解を取り付けたのち、林分ごとに100平方メートルの中にある木の本数と太さを測り、林分全体の材積を見積もる。25%間伐で何立方メートルの材が出るかを計算する。搬出間伐と作業道作設は森林組合が行い、山主へいくら戻せるか見積もりをしてもらう。最終的に、全体で約25haを間伐することになりましたが、この段取りをするのに半年掛かりました。

施業集約化による間伐現場
秋にやっと間伐を始め、大先輩も自分の山の木がトラックに乗って出荷されて行くのを感慨深げに見ていてくれたんですが、間伐が終わって検査に入ろうかという頃、「ちょっと山中さん、来てくれ。女房とけんかになっちまった」って言うんですよ。山の木が自分が想像していたよりも伐られたのを見てがっかりしたんでしょうね。山から帰って来て奥さんに話したら「あんたが最初にやるって言ったからこんなことになった」って怒っちやったらしくて。ずっと木が茂った山を見てきたから、見慣れぬ姿にびっくりしたんだと思います。喜んでくれるとばかり思っていましたから、こちらもがっかりしましたね。それでも最後には納得してもらって、それなりの金額も精算できました。この間伐のときは運がよく、県の農業大学校の施工と時期が合い、出した材をかなり使ってもらったんです。「大滝の木は良い」と認めてもらい、嬉しかったですね。

地元がちゃんとした哲学と信念をもってやっていれば、自然といい方向に向いていくのだと思いますね


カエデ活用事業の話も少し聞かせてください。

カエデの樹液採取作業
カエデに関しては、島﨑君(NPO法人秩父百年の森 理事長)ですね。彼も、大滝の沢という沢に入って山を見て回って調査・研究をしていました。私が大滝村議会の議長をやっていたころ、大滝もダムに依存し続けてはいけない、このままではいけない、何か考えないと、と思って「千年の森委員会」をつくったんです。嶋﨑君にも入ってもらいました。当時は、既存の林業の形と合わせて、エコツーリズムなども考えていました。委員会は数年で終わりましたが、7~8年個々でやっているうちに、「山中さん一緒にやってみないか」って話を持ちかけられて。それで、カエデは案外有望だなと思ったんです。

というのは、カエデは胸高直径20cm以上のものから樹液を採るようにしているんですけど、山の所有者にカエデ一本あたり500円(1シーズン)払って採るんです。今、スギだって60年生ぐらいでも1本売ってようやく1000円でるぐらいですよね。だからちゃんと定期的に収穫できれば、これは革新的だなと思いました。秩父樹液生産協同組合での収穫量は、今はカエデ一本あたり平均で20リットル収穫して、年間だと3トン生産しています。

何をやるにしても、地元がちゃんとした哲学と信念をもってやっていれば、自然といい方向に向いていくのだと思いますね。もう少し、みんなを引っ張っていける人物が秩父に増えればいいと感じます。とにかく思うのは、林業は本当に難しいということ。今の日本で林業を成功させればノーベル賞ものだっていわれたこともあります(笑)

山中さん
大橋さんもこのように言っていました。「森林の育成は投資した元利を回収するのに非常に時間がかかるので、昔から『山づくり』は業(なりわい)として成立しませんでした。他の業で儲けた余剰金の投資先が森林育成で、徳川時代から投資対象は土地で山持ちは田地を持っていました。いわば貯金で、山林とはこんなものです。それが「国土復興」のかけ声と戦災で焼失した住宅復興のため大量の木材需要と木材の不足から異常な高値になり、『山づくり』だけで業として成立するものと錯覚して新たに参入した人々も多かったのです。」

この言葉はよく噛み締めなければと思っています。だから昔の秩父では、林業の合間に養蚕もやっていたわけです。結構山のてっぺんの方まで桑を植えて。結局、生糸もダメになっちゃったけど、そのとき、養蚕に代わるものがあったなら、林業はもしかしたら違う道を行っていたかもしれないですね。


最後に、山中さんは大滝の山が将来どういう姿になればと思っていますか?

樹齢何百年という、太く立派な樹に覆われた森になればと思っています。100年ちょっとじゃあ、樹もまだ子どもですよ。それこそ、三峰神社のご神木みたいな樹が大滝の山じゅうにあるような、そういう神々しくて深い森になっていければいいですね。そのために、山を守り、育てていくのが自分の使命だろうと感じますね。

関連情報